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2022-03-19

読んだ本(2022-#17):神は妄想である

[No.2973]

#17「神は妄想である」リチャード・ドーキンス

冷静な論理構成でも熱い想いを感じる、ほとばしる情熱がこぼれ出ている、読み始めて20ページくらいしたら、なぜ著者がこの本を書いたのか、分かった気がしました。

「利己的な遺伝子」もあり、著者は、世界中のいろんな方からコメントを寄せられたようですが、中でも宗教関係者からの遺伝や生物の進化に関して、宗教的な側面からの否定的なコメントや攻撃的なメッセージをたくさん受けたようです。

著者は、個人が何を信じるかについては完全に自由を認めているし、なぜ信じるかをどう考えるのも自由であると捉えています。著者が妄想であると言うのは、宗教関係者が信者や世間に影響力を持つと言う立場でありながら、伝承や宗教関係者の解釈で神をひけらかすことに対して、否定をしています。立場を使って押し付けることは、躾や教育の名も元であっても、そんなに容易にしてはならない、と思います。

拙者は、旧約聖書と新約聖書の違いもよく知りませんでしたが、教義である聖書の中に、拙者の常識では???と感じることがたくさんあることも初めて知りました。

  • 「創世記」第19章5節 
  • 「創世記」第19章7〜8節
  • 「士師記」第11章
  • 「士師記」第19章23〜24節
  • 「士師記」第19章25〜26節
  • 「民数記」第31章18節
ここに書かれた内容を、寓話とするか、書かれていることを解釈して信者にどう話すかわかりませんが、民族や人種の異なる者への配慮はなく、社会的弱者への慈しみはなく、まだ幼い、また弱い女性を守るではなく、あたかも男性に従属するのみの存在であったり肉体的欲求の対象としての扱いを感じます。このまま現代の倫理や道徳で見ると、違和感や嫌悪感を感じずにはおれません。

時代精神(ツァイトガイスト)で、道徳的な倫理的な是非が変化していることはこれまで拙者も学んできた歴史の一端から感じることができます。時代精神の変化によって、教義を変えていくとなると、聖なる教義の間違いや限界を自ら訂正することになろう、という矛盾に気づかざるを得ません。

著者が優れた科学者であることは拙者が書くまでもないですが、感情的になりそうな宗教の是非可否を、可能な限り論理的に客観的に論じている内容に触れることで、拙者はどんなことでも、自分の考えを意見の違う相手にも、きちんと伝えることはできる、という確信を持ちました。一読では消化しきれないので、また読んでみることにします。

ちなみに、拙者は、聖書や経典に書かれる神様や仏様は、いないかもしれないと思っています。随分昔の話であるし、伝聞でしか触れることはないからです。でも、その神様や仏様を信じる人の想いは尊重できます。

人知を超えた全能の存在は、ないと思っています。災害も人災も、宇宙や地球の成立や変化は、全知全能の存在が設計したものではなく、何か原因と結果の連続であると捉えています。

神は克服できない苦難を与えたりしない、という旨の言葉を受けたことはありますが、拙者が抱えている苦難はなんとか乗り越えられるという励ましのメッセージとしてのみ受け取りました。何かの存在に苦難を与えられた、とはまったく思いませんでした。

現代の科学では証明できない存在をすべて否定はしません。いわゆる霊的な存在は、経験的に拙者自身が信じるところがあります。祖母のお通夜、祖母の自宅座敷でお坊さんに読経をしていただいていた時のこと。祖母を見送る悲しみで前夜は眠れず。読経の時に眠気が起こり、ウトウトしながら座布団に座っていました。お坊さんの後ろスペースに、白い影の小柄な女性が座っていて、お坊さんに何度もお辞儀をしている様子を見たのをはっきりと憶えています。後で近くにいた従兄に、さっきおばあちゃんがお坊さんにお辞儀していた、と言いました。従兄も、ああ、それはおばあちゃんかもな、と言ってました。

既に虹を渡った祖母や母、叔父や叔母などに、恥ずかしくないように、何が「善き」かを考えながら、善き人生を生き抜く、が拙者の軸にあります。いつも、どこかから見てくれている気がします。いろいろ話してみたいですけど、話せません。でも、いつも見守ってくれていると感じるのです。信じてほしい、とは思いません。でも、拙者は感じているのです。

どんなことであっても、自分で考えたり疑ってみることなく、信じることは、やはりしない方がいい、と思います。異なる意見や考えの人も、拒絶せずに尊重する、そんな人間にもなりたいものです。

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