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2026-07-18

読んだ本(2026-#56):進化考古学の大冒険

[No.4193]

#56「進化考古学の大冒険」松木 武彦

古墳時代の歴史」に続いて、松木武彦氏の著作です。もっと早くに読みたかった、が実感です。

拙者たちが習ってきた歴史は、古事記、日本書記や神社の縁起書の解釈に基づく研究者達の多数意見だと思います。以前から、為政者の伝える歴史が事実であるか、の検証は必要と思っていましたが、DNAや残存炭素の分析で、科学的な検証もできるようになって、ますます歴史の研究は面白いと思います。

進化考古学というキーワードには馴染みがなかったですが、興味深いです。

もっと早くから松木先生の本を読んでおけばよかったと後悔です。読めば、何より著者が古代の歴史が大好きで、興味が深く広く、そして真剣に取り組んでいると感じるのです。

権威のある方の学説を学ぶだけでなく、いろんなアプローチで迫ろうとする姿勢、感動です。

2026-02-27

卑弥呼の墓説もある箸墓古墳の調査に関して思うこと

[No.4103]

邪馬台国の存在に関する九州説と畿内説のどちらを支持するかには関係なく、3世紀中頃から後半に築造された古墳として箸墓古墳を捉えたとして、「渡り土堤」が

  • 内濠に水をためる役割
  • 古代中国の神仙思想に基づく
には、違和感を覚えます。そのようにコメントしているのは、長年古代や古墳研究に実績も成果もお持ちの方のようですので、みなさん突っ込まないのかもしれません。

私が読んでいてとても納得感のあるのは、松木武彦先生の「古墳時代の歴史」です。
古墳の分布の経緯としては、濠や環濠のある古墳は、畿内の古墳も尾張地域の影響を受けたものと考えられるので、古墳時代後期と考えられます。卑弥呼の時代とされる西暦170-248年とは重ならないので、箸墓古墳を卑弥呼の墓とするのは納得感はないです。
箸墓古墳の造営後、しばらくして環濠が造営され、田畑の灌漑用水として活用されたんだと思います。古墳への立ち入りを忌避する目的として環濠を作ったのではないと思います。
こういうの考えるの楽しいです。
箸墓古墳の名の由来、日本書記に書かれているとは言え、?な感じ、歴史学者には突っ込めないのでしょうかね。
古事記や日本書記の記述を疑い始めたら、歴史学の収拾がつかなくなるのだとは思いますが、事実には近づけない気もします。

2025-11-11

読んだ本(2025-#94):古墳時代の歴史

[No.4031]

#94「古墳時代の歴史」松木 武彦

九州北部に朝鮮半島からの技術や技術者が来て、ヤマト政権の前の権威者や政権の大王や重臣などの、後世に威光や権力を伝えるモニュメントして古墳が築造され、ヤマト政権から地方に古墳築造が伝播し。。。

そんな感じで学校の歴史では習ったのですが、拙者は中学生の頃から、

  • 西暦300年頃からの350年間ぐらいで、どう伝播したか
  • 造営技術は、どのように継承されたのか
  • 弔う、未来に威光を示すだけで巨大な古墳を作るか
  • どのくらいの人員で作るか
  • 工期はどのくらいか
  • ヤマト政権の統治が全国に伝播したのか
そんな疑問を持っていたので、完全なる考古学の素人として古墳築造には興味を持っていました。文献検証、遺跡の年代測定の科学的検証、時代経過に沿った、各地の古墳や埋蔵物の関連や独自性などを、統合した古墳時代の始まりから終わりまでの研究考察。
わかりやすく、根拠も明示され、見解も述べられて、そして読んで面白い。素晴らしい研究成果に触れることが出来て嬉しい気持ちです。

しかし、松木武彦氏の絶筆であるのは、とても残念です。もっと早くから研究者松木氏のことを知っていれば、と悔やむばかり。
邪馬台国の場所、明言されていませんが、松木氏のお持ちの仮説を感じることもできた気がします。仁徳天皇陵と習った大山古墳に代表される百舌鳥古墳群のような環濠のある前方後円墳の由来が、尾張地方の灌漑技術からの影響を受けている、つまり東の地域から河内の百舌鳥古墳群に技術伝播があったという検証、とても納得感がありました。

筑紫、出雲、吉備、武蔵などに築造されている古墳のそれぞれの経緯、出土した埋蔵品の内容の考察、伝承を歴史的事実と安易に置き換えない科学者としての矜持も勝手に感じて、興奮しました。松木氏の研究書籍、もっと読んでみようと思います。

2025-02-14

読んだ本(2025-#18):古墳が消えるとき

[No.3653]

 拙者の古墳への興味は、なんで、どうやって作ったんだろう、というとても素朴な疑問からでした。

権力者の権威を示すために、祭祀のために造営された、という説明を社会の授業で聞いても、なんとなく本当にそうだろうか、と思って聞いていました。

実家から行ける場所に、20m長の前方後円墳や円墳があったこともあり、古墳には馴染みがあったのです。このBLOGでも、素朴な疑問と興味でつぶやき始めた時から、ボチボチと生活の興味関心の一つに古墳を置いていますが、今回初めて橿原考古学研究所 編の著作を読んでみました。1997年の著作です。

拙者の疑問の主な2つは以下です。


1、前方後円墳は、朝鮮半島から日本に伝播したものではないのではないか?

wikipediaによると;
朝鮮半島西南部の栄山江流域では、日本列島に特徴的な前方後円形(円形の主丘に方形の突出部が付いた鍵穴形)の墳形を持つ10数基の古墳の存在が知られる。これらは5世紀後半から6世紀前半(朝鮮半島の三国時代、日本の古墳時代中期-後期)の築造とされ、3世紀中頃から7世紀前半頃にわたって展開した日本列島の前方後円墳の手法を基にしたと見られることから、当時の日本列島と朝鮮半島の政治的・経済的・文化的関係を表す事例として注目される。

光州月桂洞1号墳(韓国光州広域市朝鮮半島の前方後円形墳(長鼓墳)の1つ。左に前方部、右奥に後円部と石室。

前方後円墳は、日本から朝鮮に造営が伝わったと捉えた方が事実に近い可能性が高まった、と思います。

2、約400年間と考えられる古墳時代で、九州、中四国、近畿、北陸、関東、東北にまで造営された前方後円墳、造営技術は日本国内でどう伝わった?


この疑問は、この本を読んでも解決できませんでした。
しかし、さすがの研究所、なるほどという研究成果はたくさんありました。

石室の造営技術の変化に、古墳造営の時代的特徴が現れる、ということ。当たり前ですが、石室を作ってから盛り土をしますから、組み石の技術、石室の大きさから、技術の成熟度や被葬者の立場などが類推できる、ということ。
改葬、土葬から火葬、薄葬化、寿陵(生前に造営する墓)が大事なキーワードだと思いました。
初期の古墳に見られる竪穴式石室は、死後に造営していたと思います。埋葬後に古墳とするのだと思います。
横穴式石室は、寿陵であり生前から石室も造営し、石室内部にも壁画が描かれているのだと思います。
改葬が古墳の被葬者にも行われていたとは知りませんでした。寿陵に土葬で埋葬後に、横穴式石室を開けて、改葬するだったのですかね。
前方後円墳が小規模になり、円墳や方墳と薄葬化ことは納得感あります。
石室内壁画は、高句麗の古墳に多く見られることから、高松塚古墳の貴婦人やキトラ古墳の四神(青龍、朱雀、白虎、玄武)の壁画は、朝鮮から伝わったものと思われます。

やっぱり、疑問2は疑問のままです。文書も文字も日本にはないであろう時代です。中国には文書も文字もありましたから、古墳の造営技術が文書で伝わったのでしょうか?
この疑問が明らかになれば、当時の天皇、治世の影響範囲、地域の生活などがもっとよく知れるのにな、と思いながら、これからも古墳に興味を持っていくと思います。

2023-07-26

前方後円墳があったとは知らなかった

[No.3873]
実家から歩いて数分のところにある古墳群は、よく遊んだこともあって、横穴式円墳は身近な存在でした。 6世紀後半~7世紀の築造だそうです。どうやら前方後円墳もあるようでしたが、藪だったりして拙者自身が確認できず、また小型という事もあり、大きな前方後円墳への興味を持っていた幼少期でした。

今回の帰省で驚きがありました。全長66m、後円部の高さ7.3mの前方後円墳が、クルマで10分の国道そばにあることを発見。名前や存在は聞いたことがあったのですが、日常生活の視線では、単なる高台の木の茂みにしか見えないので、実際に現場に行ってその大きさに驚きました。
今は周辺を木に囲まれていますが、高台にあり眼下に街や海を見下ろす場所にあります。6世紀初め頃の築造とされています。

帰省を終えてWebを見ると、もっと実家の近所に、さらに大きい前方後円墳があることを発見。何年も見慣れた景色の山の中に、実は古墳があるとは。なんで近所の大人は教えてくれなかったんだろう。全長88m、後円部の高さ7m と大きいです。墳形・出土埴輪から4世紀末から5世紀初めの築造と推定されるとのこと。この前方後円墳も、確かに高台です。今の生活視点では、山の木々に埋もれていますので、拙者が実家に住んでいる時には、古墳があると意識したことなかったです。
西暦300年代後半に、もう近所には人が生活していたことに驚きです。日本で盛んに古墳が造られた3世紀から7世紀ごろまでを指す古墳時代と呼ばれるおよそ350年で、なぜ/どうやって古墳が伝播していったのか、とても興味があります。渡来人?紙も文字もないから設計図もないはずなので、なぜ同じような建造ができたのか?どのくらいの人数で作ったのか?

高句麗などからの渡来人によって古墳が造営された、という一説を社会の授業で聞いた記憶もあるのですが、韓国で発見された古墳には、日本の古墳よりも古いものがありません。また日本の前方後円墳が直線と曲線で構成されるのに対し、韓国の古墳の方が、より曲線的です。
350年間の間に、九州北部、山陰地方、中国山地の山間、瀬戸内、神戸や奈良、四国、そして関東の多摩川沿いや群馬の山中などの、日本全国に古墳がどうやって伝播したのか、不思議がいっぱいです。古墳の専門書、読んでみようか。

2022-07-10

多摩川台古墳群

[No.3635]

出掛ける近くに古墳があれば、立ち寄って見る、がモットーの拙者です。今回は気になっていた多摩川台古墳群に行くことができました。
高級住宅地として有名な田園調布にあります。多摩川が蛇行する様子を見下ろす高台に、10を超える古墳があります。
古墳時代は、3世紀後半から6世紀にわたる350年間くらいのこととされていますが、拙者はずーっと不思議に思っています。新聞、テレビもインターネットもない古墳時代に、350年間の間で、九州、畿内、関東地域になぜ同じデザインの古墳が築造されたのか? 誰が設計したのか? 文字もない時代にどうやって伝えたのか?

五色塚古墳も、見晴らしのいい丘にありました。被葬者に見守って欲しい、という意向を意味するのか、高い場所に埋葬することに意味があるのか、エジプト王朝の王族でなく、秦の始皇帝のような為政者でもないと思われるこれらの古墳の被葬者、ピラミッドや中国皇帝の陵墓とは、やはり目的や意図は異なるような気もします。

前方後円墳の築造方法についての解説も展示室にありましたが、そうじゃないんじゃない? が拙者の見解です。




2021-12-28

読んだ本(2021-#59):古墳の地図帳

[No.3512]
#59「古墳の地図帳」
いろんな古墳のことを知りたいな、と思いながら見つけたムック本です。
日本各地の1000もの古墳を、簡単な特徴とともにまとめてくれていて、日本全国の古墳を知るには便利です。
独自の見解ではなく、いろんな研究成果や通説をベースに書かれています。
 
3世紀後半から7世紀と想定される古墳時代です。約350年間の間に、各地の同様の古墳が造営されているということは何を意味するのでしょうか?
 
前方後円墳も、仁徳天皇陵とされる大山古墳のような大和地方だけではなく、島根、愛媛、千葉県、岡山県、茨城県や宮崎県でも造営されています。さて、350年間の間に、大和地方から千葉に古墳の造営技術が伝播するものなのでしょうか?瀬戸内海を渡って?たまたま同じような古墳が造営された、ということでしょうか?
通説では、ヤマト政権の覇権が各地に伝播した結果、地方豪族が大型の前方後円墳を造営し。。。とされていますが、拙者は何となく腑に落ちないのです。
新聞やテレビ、ましてやインターネットもない、文字もない時代に、造営技術だけが伝播するとは考えられません、また古墳職人が全国に散らばるとか、出張するとも考えられません。いきなり中央から偉い古墳職人が来ても、大規模な造営を地元のメンバーでこなせるとも思いません。

円墳はおそらく、ほぼ現代のお墓に近い意味を持ち、故人を葬るだけの目的、
前方後円墳、前方後方墳、帆立貝形古墳などは、故人の功績を誇示し、後継者たちが故人の威を借りることも目的としているように感じます。
横穴式古墳は、現代のお墓に最も近い意味を持っていると仮説を持っています。

ヤマト政権の派遣の広がりが、前方後円墳などの造営伝播に影響したのではなく、何となくの形である円墳に、祭祀や被葬者を敬う儀式用の舞台として前方墳がくっついて前方後円墳となり、大和地方については大王の威光を借りようとした故人の後継者が大きな前方後円墳の造営を行った、と仮説を持っています。
大和地方以外の場所で、大きな前方後円墳が造られた経緯は、拙者もまだ仮説が持てていません。大阪・堺の仁徳天皇陵、神戸・舞子の五色塚古墳、距離も離れているし、造営は五色塚古墳の方が古いとされています。陵墓を水の堀で囲った仁徳天皇陵、明石海峡大橋と瀬戸内海を高台から望む五色塚古墳、造営の目的に思いを馳せるだけでも楽しくなります。
ちょっと行けば見学できる古墳もたくさんあることがわかったし、どこかに出かける前には、目的地や通過場所の近くにある古墳も知ることができる、いいムック本です。

2021-07-02

野毛大塚古墳(帆立貝形古墳)

 

[No.3400]

久しぶりの古墳シリーズ。

拙者、出かける目的地の近くや通り道に、古墳があるかどうかを割り時にするタイプです。ちょっと寄り道すれば古墳がある、なんて場合は、確実に古墳を拝見します。

今回は、初めて帆立貝形古墳を拝見しました。前方後円墳とは少し異なる、前方の方形部分が全体と比較して小ぶりで、かつ円墳部分の盛りが高い、が特徴と見ました。

どうやら、大規模な前方後円墳の造営を、大王に禁じられてことが前方の縮小になったという説が有力なようです。大きく盛られた古墳は高さ9m。造営当時であれば、遠くからでも見てわかる大きい古墳だったはず。有力者の権威を死後も奉る、という目的であり、死後の安寧を祈願し弔うではなかったように思います。弔いのであれば大きさは不要な気もするのです。

多摩川西岸には、大きな古墳があちこちにあります。九州北部、畿内、関東の古墳の形状が似ていますが、どうやって伝播したのか、たまたま似たのか?全国を回る古墳建築家がいたのか?人生でそう何回も古墳の建築に携わることもないだろうし、図面があるわけでもないだろうし。

実際のところ、どうだったんでしょうね。

 

2019-05-09

皇子山古墳群

[No.3045]

家族での琵琶湖周辺の旅行の間に、みんなを説得して寄りました、
皇子山古墳群です。
琵琶湖周辺、近江神宮も近い今となっては住宅街にある山です。
見た目は、そのまんま山です。隣は住宅や道路ですし。
我が家のクルマのナビだけでは、住宅街の袋小路に行き着きました。

近隣には、○○遺構の跡とか、遺跡跡地とか満載です。
五色塚古墳を散策した時にも感じましたが、
海(湖)や町を見下ろす見晴らしのいい場所にあります。
豪族や社会的地位の高い人々が埋葬されていると考えられる古墳ですが、
拙者は古墳の意義や役割について個人的見解を持っています。
死者の生前の功績を敬う、哀悼の意で弔う、が古墳造営の直接の意義ではない、
のではないか、と考えています。

王様のピラミッド、皇帝の陵墓の造営には多大なる工数(お金、時間、人手)がかかります。相当な負担なのです。国家予算であればまかなえると思います。
ましては豪族や社会的地位の高い、というくらいでは、まかないきれないと思うのです。

豪族や社会的地位の高い人々の古墳造営の”真”の目的に関する仮説は、
古墳や周辺の土地を、関連部族の所有資産・財産として確保すること、
と考えています。

2012-09-15

五色塚古墳(ごしきづかこふん)


[No.1803]

上海出張から戻った翌日に行った、
と言うよりも、寄って見ました五色塚古墳。

兵庫県下最大の前方後円墳ですが、
住宅とマンションが林立する中に
忽然と姿を見つけました。

葺石が敷かれ、
墳丘には復元された円筒埴輪が並べられ、
背景に見える明石海峡大橋、
そして周辺の住宅やマンション、アパート。
少し不思議な気分で眺めていました。

瀬戸内海や海岸沿いの集落をを見下ろすように造られた古墳です。
全長194m、高さ18m、確かに山です。近隣の地名は五色山。

1,500年前ぐらいに造られた古墳です。
目を閉じて歴史に思いをめぐらせようとしましたが、今日も暑かった。
古墳で脱水症状で倒れるようなことになってはいかんので、
そそくさと駐車場に戻ったのであります。

2012-03-24

処女塚古墳(おとめづかこふん)

[No.1676] 

万葉集にも登場する悲恋のお話があるそうで、 素敵な若い女性が、二人の若者が求婚し、 思い悩んだ乙女は川に身を投げ、 それを知った二人の若者も後を追った悲しいお話。 哀れんだ親族が、乙女の墓として作ったのがこの古墳であり、 その古墳を挟むように東西2kmの地点に2つの求女塚(もとめづか)、 西求女塚古墳、東求女塚古墳がある。 拙者初めての前方後方墳でした。 古墳としては現在少し残念な状態です。 大正11年に国指定史跡となりましたが、 すでに道路建設で破壊されており、 今は散歩できる公園として整備され、 墳丘の上も気軽に散歩でき、ラジオ体操も出来る、街灯もある。 かなりオープンでフレンドリーな古墳でした。 前方後方墳は、中央の権力に属さない地域の豪族の墓として典型的なタイプとの事。 山陰系土器も出土しておるとのこと。 5世紀の頃、土器を運んだのか? 土器の作り方が伝播したのか?  どうやって??? 歴史的な切り口としては、かなり初歩のところでも十分楽しいのであります。

2012-01-04

大代古墳(おおしろこふん)

[No.1613] 

年末に四国の親戚を訪ねました。 クルマで片道4時間、我が家にとっては長めのドライブであります。 渋滞したり、チビ子がグズると大変なことになるだろうとビビリながら旅はスタート。 出発して20分でチビ子睡眠開始、 なんていい子なんだ、グッジョブ。 その後もスイスイと瀬戸内海を渡り、淡路島を縦断し、四国に上陸。 鳴門インターチェンジを過ぎた後に通過するのは、大代古墳トンネルです。 古墳の下にトンネルを掘ったんです。 当初は山を切り崩して道路を造成する予定だったらしいのですが、 全長54mの前方後円墳と2基の円墳が発見された事によって、 切り崩す案ではなく、トンネル案に変更されたようです。 4世紀末の古墳で、くり抜き式の石棺や家型埴輪も発見されたとのこと。 平野の中にぽつんとコンモリした林や山を見かけると、 あれは古墳じゃないか、と一人で興奮していたりするのですが、 大代古墳は、まさに拙者の独りよがりな古墳熱を実現させてくれる存在であります。 道路が造成されなければ、発見はもっと遅くなるか、発見される事もなかったか? うう〜ん、やっぱりロマンです。

2011-01-10

阿保親王塚古墳(あぼしんのうづかこふん)

[No.1382] 

開始を宣言したままの「古墳」シリーズ、再開です。 阿保親王(792~842年)とは、平城天皇の皇子であり、 在原業平の父でもある。平安時代の皇族です。 周囲は一戸建てやマンションが立ち並びますが、 この一角は自然のままの、森であります。 考古学的には、4、5世紀の頃築造された円墳のようで、 阿保親王のお生まれになる数百年前のものだと考えられるとのこと。 宮内庁管轄の墓所であるので、発掘調査もされておらず、立入禁止。 誰も監視している訳ではありませんが、囲いを乗り越える訳にもいかず、 夕方で寒くなる中行きましたが、周囲から眺めるのみ。 拙者の私見ですが、やはり古墳時代のものでしょうから、 きっと地域の豪族の墓所であると思われます。 しかし、1,500年の時を超えて存在し続ける古墳と森を見ると、 歴史の長い時間に思いを馳せ、日常の悩みやイライラなんて たいしたことない、と思えたのであります。 しかし宮内庁管轄の古墳はガードが固いなぁ。

2010-03-09

前方後円墳に抱いていた素朴な疑問


[No.1190]
物体を俯瞰で表示する場合は、
なんとなく前を上にすると思います。

例えば、地図表記で北を上にするように。
前方後円墳という呼び方に違和感がありました。
後円部は埋葬する墳丘。
前方部は埋葬者を祀る祭壇とする説と
後円部への墓道であるとする説とあるようです。

Wikipediaで調べたところ、前方後円墳と名付けたのは、江戸時代の国学者である蒲生君平。
1800年頃に近畿地方や四国地方の天皇陵に関する調査結果をまとめた「山陵志」の中で、前方後円という言葉が用いられたそうです。
蒲生氏は、埋葬される部分を奥にするべきと考えて、墳丘である円部を後ろ(後円部)としたのかなぁ、と思ったりします。

前方部を下にする方が見た目に安定感があるから、前を下、後ろを上にするのだろう、と考えると拙者の素朴な疑問が解消された気分になるのであります。

2010-03-08

新カテゴリーでつぶやきます宣言

[No.1189]

これまでに、次のようなカテゴリーでつぶやき叫んできました。
・あいさつ
・コメントの書き方
・ゴルフ
・テニス
・モノ
・家族
・文房具
・本
・海外編
・雑感
・食べ物

以前のつぶやきと叫びBLOGでは、カテゴリーを設定する機能がありませんでしたが、
このカテゴリーは便利。自分で昔の日記を読んでみたりする感覚でしょうか。

自分でも突き詰めてみたい興味分野がいろいろありますが、BLOGでつぶやき叫ぶ以上は
少しは自分なりの見解や経験も出していきたいもの。
でも、深く洞察する事もできず、
どうやってその歴史的事実に迫ればいいのかわからない興味分野もありません。

なのでこのBLOGでつぶやき叫ぶ事もやめておりましたが、
もう自分の気持ちを抑える事ができませんので、
未熟ながら拙者なりにテーマを突き詰めていこうと思います。

その突き詰めて行きたい新テーマ、ブログのカテゴリーとは・・・





古墳

です。