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2021-12-28

読んだ本(2021-#59):古墳の地図帳

[No.2920]
#59「古墳の地図帳」
いろんな古墳のことを知りたいな、と思いながら見つけたムック本です。
日本各地の1000もの古墳を、簡単な特徴とともにまとめてくれていて、日本全国の古墳を知るには便利です。
独自の見解ではなく、いろんな研究成果や通説をベースに書かれています。
 
3世紀後半から7世紀と想定される古墳時代です。約350年間の間に、各地の同様の古墳が造営されているということは何を意味するのでしょうか?
 
前方後円墳も、仁徳天皇陵とされる大山古墳のような大和地方だけではなく、島根、愛媛、千葉県、岡山県、茨城県や宮崎県でも造営されています。さて、350年間の間に、大和地方から千葉に古墳の造営技術が伝播するものなのでしょうか?瀬戸内海を渡って?たまたま同じような古墳が造営された、ということでしょうか?
通説では、ヤマト政権の覇権が各地に伝播した結果、地方豪族が大型の前方後円墳を造営し。。。とされていますが、拙者は何となく腑に落ちないのです。
新聞やテレビ、ましてやインターネットもない、文字もない時代に、造営技術だけが伝播するとは考えられません、また古墳職人が全国に散らばるとか、出張するとも考えられません。いきなり中央から偉い古墳職人が来ても、大規模な造営を地元のメンバーでこなせるとも思いません。

円墳はおそらく、ほぼ現代のお墓に近い意味を持ち、故人を葬るだけの目的、
前方後円墳、前方後方墳、帆立貝形古墳などは、故人の功績を誇示し、後継者たちが故人の威を借りることも目的としているように感じます。
横穴式古墳は、現代のお墓に最も近い意味を持っていると仮説を持っています。

ヤマト政権の派遣の広がりが、前方後円墳などの造営伝播に影響したのではなく、何となくの形である円墳に、祭祀や被葬者を敬う儀式用の舞台として前方墳がくっついて前方後円墳となり、大和地方については大王の威光を借りようとした故人の後継者が大きな前方後円墳の造営を行った、と仮説を持っています。
大和地方以外の場所で、大きな前方後円墳が造られた経緯は、拙者もまだ仮説が持てていません。大阪・堺の仁徳天皇陵、神戸・舞子の五色塚古墳、距離も離れているし、造営は五色塚古墳の方が古いとされています。陵墓を水の堀で囲った仁徳天皇陵、明石海峡大橋と瀬戸内海を高台から望む五色塚古墳、造営の目的に思いを馳せるだけでも楽しくなります。
ちょっと行けば見学できる古墳もたくさんあることがわかったし、どこかに出かける前には、目的地や通過場所の近くにある古墳も知ることができる、いいムック本です。

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